大学生の時、教会で一緒に聖書を学んでいる東大生の中には神様を信じない人も多かったです。
信じない理由としては、聖書に書いてある「霊」の存在が信じられないというのが多かったと思います。
聖書には、「神様は霊」、「人間には霊と心と体がある」と書いてあるのですが、
霊も神様も目に見えないじゃないか、
霊と神様がいることを科学的に証明できないじゃないか、
というわけです(特に理系の人)。
印象深い出来事があるんですが、ある日、教会のみんなで雑談している時、誰かが
「納豆ってね、混ぜると段々ねばりが強くなっていくんだけど、ずっと混ぜ続けると逆にねばりがなくなるんだって」
と発言しました。
みんな「ふうん。。。」という感じでしたが、ある東大医学部の男の子が冷蔵庫からおもむろに納豆パックを取り出し、すごい勢いでかき混ぜ始めました。
最初はみんなも興味津々で、いつねばりがなくなるのかと納豆に注目していたのですが、
しばらく経っても全くねばりがなくならないのを見て、一人二人と離れていきました。
私も別のことに取り掛かり、納豆のことはすっかり忘れていたんですが、1時間後くらいに彼を見ると、なんとまだ真剣に納豆をかき混ぜ続けていたのです!
『やっぱり医学部、すごいわ。。。』
と感じた瞬間でした。(あ、ちなみにねばりはなくなってなかった記憶があります。)
そのように確認、証明が大好きな理系の彼らが、目に見えない、手に触れない神様を信じられないのは無理もないわけです。
そんな中でも、いつしか神様を信じるようになる人もいるんですね。
はたから見ている私としては
「え?なんで?信じるようになったの?あんなに否定してたじゃん~」
と、その都度びっくり仰天していました。
彼らが神様を信じるようになった理由は、神様や霊が見えるようになったからでも、科学的に証明できたからでもなく、、、
神様を『体験』
したんですね。
ガン末期で余命宣告されたお父さんのために牧師さんに祈ってもらったら、奇跡的に回復した!
海外旅行に行く当日、体調不良でキャンセルしたら、旅行予定先の国で大洪水が起こった!
交通事故に遭って車が横転したが、かすり傷一つなかった!
などなど、人間的には考えられない出来事が積み重なると
「さすがにこれは神様いるよね。。。」
と感じるようになります。
こんなすごい出来事ばかりじゃなくても、
「あぁ、肉まん食べたい。。。」
と思っていたら、前から歩いてきた友人が
「肉まん食べる?」
と差し出してくれるとか
今月どうしても生活費が2万円足りない時、親が急にお小遣い2万円を送金してくれるとか
誰にも話してない、神様しか知らないことが実現すると、段々神様の存在を認めざるを得なくなっていきます。
キリスト教が『体験の宗教』と言われるゆえんがここにあります。
考えてみれば、人生で大事だと言われる「愛」も目に見えません。
でも、人と付き合っていくうちに、段々愛が感じられるようになり、実感できるようになり、確信できるようになります。
神様とも付き合っていくうちに、その存在が段々感じられるようになり、実感できるようになり、確信できるようになる、、、
その過程を東大リケダンの中にたくさん見させてもらいました。